アメリカ・シアトルの大学でアニメ版「はだしのゲン」が上映

2001 年にアメリカ、シアトルのカレッジに留学されていた女性から手紙と『はだしのゲン』の講義に関する論文の掲載された『ノエマ・ノエシス』誌23号(2013年)を頂きました。 アメリカのカレッジで実際に『はだしのゲン』に関する講義を受け、アニメ版「はだしのゲン」を見た日本人の貴重な体験と教授への直々のインタビューです。是非お読み下さい。

論文を書かれました茉莉亜まり様と『ノエマ・ノエシス』さまのご好意により「はだしのゲンをひろめる会」のホームページに論文を転載させて頂きましたことを感謝申し上げます。

 

アメリカ人が見た「はだしのゲン」

――GEN in  the  USA――

莱荊亜まり

『はだしのゲン』(以下『ゲン』)の原作者である中沢啓冶さんが2012年12月、広島で亡くなった。享年73歳。肺がんであったという。

私の父方曽祖父は原爆投下直後のヒロシマで亡くなった。和服姿のまま、庭先にうつ伏せに倒れて息絶えていたそうだ。広島、長時の原爆資料館に行ったことはあるが、あるときまで、『ゲン』を読んだことはなかった。

私が初めて『ゲン』に出会ったのは、2001年、シアトルのコミュニティカレッジの講義室。映画の父と呼ばれるフランスのリユミエール兄弟にはじまって現代までの映画の歴史を、実際に作品を観賞しながら学ぶという授業の中であった。学期最後の授業は、歴史順にいえば、スパイク・リーの『マルコムX』の観賞となるのだ、が、とレナード・ライファス教授が口を開いた。レナードは、自分でも作品を描いているアメリカンコミックのクリエーターでもある。

「君たちにはもう一つ、選択肢がある。順番通りの作品か、日本のアニメーションか。どちらか見たい方に挙手し、多数決で決めることにしよう。」

レナードが提渠した。2001年と言えば、翌2002年に『千と千尋の神隠し』でアカデミー長編アニメ映画賞を受賞する年。宮崎駿の名前は、日本アニメ界の巨匠「ミヤザキ」として映画のクラスでは広く認識されていた。100名ほどのクラスでアメリカ人が8割ほど。日本人は私一人。 あと、確認できた限りでは、韓国人と中国人が数名ずつ。決を採ると、圧倒的多薮が日本のアニメーションに挙手した。

ここで、「日本のアニメーション」という以外の説明は一切なくレナードが上映したのが『Bearfoot Gen』、英語字幕付きの『ゲン』であった。

原爆投下直後。人間の体がどろどろと溶けだし、眼球がこぼれ落ちる。首が胴体から剥がれる。その状態の人々が大挙して歩く。衝撃的な映像に、クラス全体が凍った。アニメーションとはいえ、原爆がなしたことを初めてまざまざと映像で見た私もそのなかの一人だった。生徒たちの中には、ショック状態に陥るものも少なからずいた。

あとからわかったことなのだが、レナードは、2009年に『ゲン』の全英訳を終えたボランティアグループ「プロジェクト・ゲン」が、その創生期(1977年ごろ)に英訳した『ゲン』の数ページを日本の友人から入手。1978年、アメリカで初めて、英語版の「ゲン』を出版した人であった。

『ゲン』を初めて見た時に、「これは自分がやらねば。」

と思ったそうだ。『ゲン』は、1973年に「週刊少年ジャンプ」で連載か始まってから、連載の中断を余儀なくされた時期もあり、第1部の完結は1985年。その間にレナードは、『ゲン』に先だって書かれた中沢の自叙伝『おれは見た』を、1982年「ISAWIT」としてアメリカで出版している。ともすると、原爆投下は第二次大戦終結には不可欠で、アメリカが戦争を終わらせたという見方がある当のその国に、レナードという一人の人間がいる。

衝撃。尊敬。感謝。すべてが渦を巻いた。

レナードは現在もシアトル在住だ。以下、昨年6月におこなったメールによるインタビューを再構成しながら、記事を進める。

「1970牟代に私が中沢の作品に出会った時、私はすでに原子力エネルギーの悲劇的な事故の可能性、核廃棄物を貯識する安全な方法の欠如、核兵器を用いたテロリズム、核拡散、原子力技術に伴うその他の危険要素や問題点について警告を与えるコミックブックや創って配給していました。」

「最初に中沢の漫画を出版した時、学校に頼るのではなく、読者に直接売りたいと思いました。皮肉にも、中沢の作品を出版することに持っているお金をすべて費やした後、生許や立てるため、教壇に立てるよう勉強をしました。今、私はカレッジと大学で漫画と映画について教えており、年に7回、『ゲン』をクラスで見、『わたしは見た』の漫画を読むことを課しています。生徒たちがニューススタンド(注―新聞雑誌を売る売店)からは決して買わなかった漫画本を義務として読んで、それでも深く心を動かされるのを目の当たりにします。」

「授業で『ゲン』を見た多くの生徒は、それまで「ヒロシマ」「原爆」は、単なることばであった、と私に話します。中沢は深い怒りから『ゲン』や描きましたが、それを見た生徒たちが感じるのは、きまって深い悲しみです。当初は、悲しみを感じさせるだけではなにもならない、と案じていました。しかし、中沢のような被爆生存者の証言は、核丘器の恐怖を伝え続けるひとつの力です。原爆被害生存者が亡くなってしまっても、彼らの証言はずっと保存され伝えられていくでしょう。」

「中沢の漫画を出版することはわたしの人生でなしたことの中でもっとも重要なことであるにもかかわらず、私は中沢を個人的にはよく知りません。中沢とは、東京在住の私の友人が本と友人のとの会話に基づいて書いてくれたビジネスレターを通してコミュニケーションをとりました。個人的には、三度、中沢に会う機会がありました。一度目は東京でしたが、私はそのときに38度の熱があり、どんなやりとりをしたのかほとんど憶えていません。あと二度、カリフォルニアで『はだしのゲン』のアニメーションを見せているときに中沢に会いましたが、その時も面と向かって深刻な議論を交わすことはありませんでした。」

「私の両親はわたしを支え、助け、私が中沢の作品を再出版することを可能にしてくれました。ここ数年のうちに、両親ともに亡くなりました。私の日本人の妻子も、私をずっと助け、支えてくれています。彼女には長く、長く生きてほしいと思っています。

私はよい友人たちに恵まれていますが、私の事業はいつもたった一人の事業です。」「深刻な主題を扱ったコミックスは非常にまれです。『はだしのゲン』における中沢の業績によって触発された漫画家たちは、漫画を重要な事項を扱う媒体として、その芸術的な表現を評価に値するレベルまで高めた作品を作り続けています。」

レナードは自身を「活動家と思ったことは一度もない」、という。核兵器のない未来の存在を信じ、しずかに行動を続けるアメリカの、いや人類の良心、ほかならぬレナードに、長く長く生きて、その仕事を続けてほしいと切に願って止まない。

 

はだしのゲン・紙芝居

出版物の紹介


はだしのゲン
『わたしの遺言』
 中沢啓治 著

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